生きる
日付が変わる頃、父からメールがきた。
今日が太平洋戦争の開戦の日ということで。
いささかの思出話かと思いきや、亡き祖父の話であった。
朝日新聞の記者だった祖父は、開戦後2年ほどした時、海軍報道班員として、ニューブリテン島にむかったという。
追い詰められた日本軍が撤退をはじめた中、ラバウルの滑走路に残った民間人二人を戦闘機で脱出させることとなった。
一番機には祖父、二番機には毎日新聞のT記者。
私にも脈々と受け継がれている忘れっぽさ。
その時も大事な書類を忘れてきた祖父がとりにもどる。
地上勤務の整備兵が『Tさん、一番機にどうぞ』
諸兄のご明察どおり、前途有望な若い記者を乗せた一番機は太平洋上で撃墜されてしまったのだ。
祖父を乗せた二番機は海上すれすれをいき、なんとか戻れたらしい。
祖父は自分のそそっかしさのせいで、私が死ぬべきだったところを、とT記者の家族に手をついて謝ったそうだ。
その時に父は生まれていたので、私の存在云々はなしとしても。
借りのない人生などない。
この話は私におおいなる決意をもたらした。
生き抜くことである。
数日前、咳につぐ吐き気、からだのあちこちの痛み、なにも食べられず、このまま眠ってる間に心臓がとまってくれないかな、、と思っていた。
今なら、彼女は存分に闘った、とほめてくれこそすれ、責める人はいないだろう、などと考えた。
もう生きていたくない、と珍しく母にメールした。
返事はなかった。
今、私はがっつり生きることにした。
自分の死を願うことは、病気に白旗をあげること。
誰が知らなくても私が知っている。
頂く命がある。
繋いでいく命がある。
太平洋上で散ったT記者の分も、生涯苦しんだであろう祖父の分も、私は生きる。
なんとしても克服する。
これからの険しい道のりに向かってナチュラルキラー細胞を活性化させて、絶対に生きる!
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うん。「死んで花実が咲くものか」と実父が常に言っておりました。
ぼくのような生きるに足らないつまんない人生でも、あえて死ぬよりりはマシかも・・・。
苦しいけれど、生き抜けばたまにはいいこともあるかもっす。
立派なことは言えないけど、立派な人生を送ってはいないけど、この先いいことがあるのかわかんないけど、生きてこそわかることもあると思います。
とか言ってるとナチュラルキラー細胞が活性化すとような気が・・・気のせい?
投稿: tetujin | 2017年12月 8日 (金) 22:25
tetujin様 こんにちは
そうです。
生きてなんぼ! みなぎる力でがんばりますよ~!
投稿: miki⇒tetujin様 | 2017年12月10日 (日) 18:52